第十七席 朝寝坊のらく 下

【登場人物】
●立川談志......落語立川流家元、志らくの師匠
●朝寝坊のらく(前座名・談々)......故人。落語立川流落語家、志らくの兄弟子
●立川文都(前座名・関西)......故人。落語立川流真打ち、志らくの兄弟子
●立川談春(前座名・談春)......落語立川流真打ち、志らくの兄弟子
●立川志らく(前座名・志らく)......落語立川流真打ち、私

~受けまくった立川ボーイズ~

 1988年3月、のらく、文都(ぶんと)、談春(だんしゅん)、志らくは、二つ目に一緒に昇進した。そして1年後、私たちは、「平成名物TV ヨタロー」(TBS)に「立川ボーイズ」として出演し、一躍人気者となった。
 この番組は若手落語家のバラエティで、深夜放送。落語協会、落語芸術協会、円楽党、落語立川流の4団体の若手が3人1組になり、大喜利、コントなどをやって競う番組で、のらく、談春、志らくが組んで立川ボーイズを名乗ったのだ。
 番組スタート時点では、コントのところは志らくと談春だけで出て漫才もどきを披露した。
 無名の若手落語家の漫才なんかだれも聴かない。公開放送だったが、まったく受けなかった。しかし、番組内でのらく兄(あに)さんがちょいとしゃべると客席から反応があるのだ。若手といいながら、ひとりだけ明らかに中年で、禿(は)げているし、その姿が異様だったのであろう。
 そこで志らくは、次の収録からコントにのらくに参加してもらった。これが大当たり。どっかんどっかん受けるのだ。ボケがのらく。志らくは危ないギャグを連発。談春がそれらに突っ込む。
 のらくを主人公にしたいろいろなコントを私がこしらえた。のらくを魔法のランプの精にしたり、らくだのシャツに股引(ももひき)をはかせてキングコングに見立てたり、新聞紙で折った兜(かぶと)をかぶせて、下着に腹巻をさせて大魔神にしたり、金髪のカツラをかぶせて、悪魔にとりつかれた少女リーガンにして「エクソシスト」のコントをやったり、大暴れだった。
 この立川ボーイズのコントが受けたので、1クールで終了のはずの番組が1年続いたのである。

~のらく兄さんの恋~

 収録スタジオには10代の女の子の追っかけがつめかけ、さながらアイドルであった。ただ、のらく兄さんのキャラは際物(きわもの)で、次第に客から飽きられていった。こうなるとどうにもならない。登場するたび、失笑だったが、志らくと談春の人気がすさまじかったので、この2人のコントの部分は受けるのであった。追っかけも志らく派、談春派に分かれ、2人が登場するだけでスタジオはキャーキャー大騒ぎであった。
 失意のどん底におちたであろうのらく兄さんであったが、実はそのころ、バラ色の人生であったのだ。というのも彼は恋愛をしていた。ファンの子と付き合っていたのだ。相手は、フェリス女学院大学に通っている美しい女性とのこと。
 あるとき、のらく兄さんが、こんなことを言った。
 「志らくよ、コントでのおじさんの出番をもう少し多くしてもらえないかな。女が志らくさんばっかりMVPをとってずるいって言うんだよ。おじさんもそろそろMVPをとりたいしね」
 MVPとは、その日の番組で一番面白かった落語家に与えられる賞である。初期のころはのらく兄さんも随分ともらっていたが、途中から志らくばっかりになっていたので、彼女にせがまれそう言ってきたのである。でも旬が過ぎてしまった人を復活させる腕は私にはなかった。
 旬は過ぎても春が来ているのだからいいではないかと、時折私と談春兄さんでなぐさめたものだが、この恋も、実はのらく兄さんの一方的な勘違いであったという事実が発覚した。
 彼女から私のところに苦情がきたのだ。「のらくさんがしつこくて困る」と。たぶん、最初のころは女も気を引くようなことを言ったのだと思う。そのうちにあまりにのらく兄さんが本気になってきたので、驚いて身を引こうとしたら、もう手遅れで、つまりストーカーみたいになってしまっていたのである。
 「着物姿ののらくさんがうちのマンションの前にずっと立っているんです。もう怖くて怖くて」
 女は電話口で泣いていた。数日後、のらく兄さんに事情を聞いてみた。
 「いや、彼女と飲んだんだよ、居酒屋で。で、彼女の家が近所だというので、送っていくと言ったら、結構ですと言うんだ。それは「寄ってもいいわよ」というサインだと思うだろ? 女のイヤはイイということだもの。だけどかたくなに彼女が拒否するんだよ。帰られちゃうと困るから、彼女のハンドバッグを奪ったんだ。もってあげるよって言ってね。そうしたら、泣きながら逃げちゃったんだよ。後を追いかけてマンションを突き止めたんだけど、出てこないから、それでしばらく立っていたんだ。女心は分からないもんだよ」
 ハンドバッグを捨ててでも逃げたかった女の恐怖が、まったくわかっていないのらく兄さんであった。
 完全にふられているのにそれに気がついていない。「女のじらし」だと言ってきかない。
 仕事が終わって、のらく兄さんと二人で食事をして、その際もずっと彼女の話に終始していて、そろそろ帰ろうとしたら、
 「志らく、喫茶店にでもいかない?」とのらく兄さん。
 「何か話でもあるんですか?」と尋ねると、
 「いや、もう少し、おじさんの女の話を聞いていかないかい」
 ......そんな暇はないよ、兄さん!
 そんなのん気なのらく兄さんも、数ヵ月後、ついに自分がふられたことに気がついた。随分と荒れた。自棄酒を飲んでいた。
 そんなのらく兄さんを慰めようと、志らくと談春が彼に付き合った。場所は池袋の居酒屋。2軒3軒4軒の梯子酒(はしござけ)。
 明け方のスナックで、酔ったのらく兄さんが、
 「談春(はる)、このウイスキーを一瓶一気に飲んだら、おじさんは死ねるかな」
 とつぶやいた。談春兄さんは、
 「飲んで死にゃぁ、いいよ」
 と吐き捨てた。志らくも談春も一晩中ぐだぐだ愚痴る兄弟子(あにでし)にほとほと愛想がつきていた。
 朝、カラスが飛び交う池袋の繁華街を3人で歩いていた。始発で帰るためだ。するとのらく兄さんが叫んだ。
 「もう少し、付き合って! もう1軒だけ飲みに行こう! 兄弟子の命令だ。行くぞ!」
 これには談春兄さんが切れた。
 「いい加減にしやがれ、この禿げが!」
 のらく兄さんをヘッドロックして駆け出すと、ゴミために投げ捨てた。
 憐(あわ)れなりのらく兄さん。
 着物姿の朝寝坊のらくが、「あぁあぁ」と情けない声をあげながら、朝の池袋のゴミ溜めに沈んでいた。

~すごむ談春 VS 涙目のらく~

 師匠の娘さんの結婚式で立川ボーイズが余興をやることになった。場所は東中野の日本閣。当日はパーティの手伝いもあり、余興の稽古(けいこ)もしないといけないので大忙しであった。私とのらく兄さんは早めに会場入りをして雑用をしていたが、談春兄さんがこない。
 「談春兄さんはきっとまた競艇ですよ」と私が言うと、
 「たまには小言(こごと)を言わないとな」と珍しく語気を強めるのらく兄さん。
 「びぃしっと言ってやってくださいよ!」とあおる志らく。
 遅れて談春兄さんが到着。のらく兄さんは真顔で言った。
 「おい、談春(はる)! どうして時間通りに来ないんだ。どうせまた競艇だろ!」
 すると、談春兄さんの顔色が変わった。
 「競艇じゃないですよ。仕事があってそれで遅れたんですよ。文句ありますか?」
 仕事で遅れたのならば仕方がない。のらく兄さんも「ああ、そうだったのか」ですませればいいのに、
 「なんだ、その言い草は! 俺は兄弟子だぞ!」
 と談春兄さんを叱(しか)った。すると談春兄さんはすごんだ目をして、

 「......それがなんだってんだ。文句があるなら表に出ろよ!」  この言葉にのらく兄さんは、
 「いや、あのう、文句はないよ。もういいよ」
 と涙目になって後ずさり。談春兄さんがいなくなってから私に、
 「......談春(はる)は洒落(しゃれ)が通じないから困ったもんだよ、へへへ」
 と笑って涙をごまかす情けないのらく兄さんがいた。

~破門騒動~

 『雨ン中の、らくだ』にも書いたが、彼の性格を如実(にょじつ)に表すエピソードだから、また書こう。
 「平成名物TV ヨタロー』でのらく人気が下降し始めたころ、彼の破門騒動が持ち上がった。
談志があるとき、のらく兄さんに電話を入れたのだが、へべれけに酔っ払っていたのらく兄さんは、声の主が談志だということに気がつかなかったのだ。「俺だ」という談志に対し「どちらの俺さんですか?」と聞き返してしまったのだ。
師匠は怒り狂った。すぐさま私のところに電話をかけてきて、
 「のらくの奴は破門だ。師匠の声もわからねぇ。破門だと伝えておけ」
 私は慌ててのらく兄さんに電話をした。
 「破門になっちゃうから、明日すぐに詫びに行かないといけないよ!」
 明くる日、のらく兄さんは練馬の師匠の自宅に飛んで行った。あとでのらく兄さんに電話で様子を聞くと、
 「ああ、大丈夫。師匠、怒ってなかったから」
 私も一安心。数日後、師匠に会うと、「のらくは破門だから」とまだ怒りが収まっていなかった。師匠が言うには、
 「あいつ、来たよ、次の日。ヘラヘラ笑いながら。で、掃除だけすると、何も言わずに帰っちまった。なんだかわからねぇ」
 私はのらく兄さんに「どうなっているの?」と聞いた。するとのらく、
 「おかしいな。家に行ったとき、師匠、何にも言わないんだもん。もう怒っていないのかと思ったよ」
 鈍感にもほどがある。
 次の日、私と談春兄さんがのらく兄さんに付き添って、師匠の仕事場に詫びに行った。師匠は何を怒っているのかを優しく語ってくれた。要は酒はほどほどにしておけということだった。私と談春兄さんはしきりに頭を下げていた。しかし肝心ののらく兄さんが頭を一度も下げないのだ。師匠の楽屋から出て、2人はこの兄弟子を叱りつけた。
 「なんで、弟弟子(おとうとでし)が頭を上げているのに、張本人の兄さんが下げないんだよ。兄さんがあそこで土下座をすれば師匠の怒りは収まるんだよ!」
 このとき、この兄弟子の頭には「土下座」の文字だけがインプットされてしまったようだ。打ち上げで銀座の「美弥(みや」という師匠の行きつけのバーに行った。師匠がトイレに行こうとしたら、便所の前でいきなりのらく兄さんが土下座をしてしまったのだ。
 「俺はそういう行為が一番嫌いなんだ! どけ!」
 だれがそんな時に土下座をしろと言ったよ、兄さん!
 のらく兄さんはまた涙目で、
 「だって土下座しろというから。お前たちにまた一杯食わされちゃったよ」
 とつぶやいた。

~談志 VS のらく~

 それからしばらくたって、師匠が海外に出かけた。帰国のときは迎えはいらないと師匠からの通達があったが、ここがチャンスと私はにらんだ。のらく兄さんに、
 「成田まで迎えに行くべきだよ。だれも弟子は行かないんだから、兄さんがひとりで待っていたら、許してもらえるよ」
 と伝えた。のらく兄さんは私に言われるがまま、成田へと向かった。すると電話がかかってきて、
 「志らく、師匠がいなくなっちゃたんだよ」
 と泣き声である。なんでもバスに乗るために師匠に1万円札を両替してこいと言われ、戻ってみたら師匠がいなかったとのこと。私はすぐに師匠の家に向かえと指示をだした。
 数日後、師匠が言った。
 「あいつ、成田にきたよ。追い返すわけにもいかないよな。で、バスに乗ろうとしたら、細かい金がないんだ。俺の分はあるが、あいつの分まではなかった。それで『1万円をくずしてこい』とのらくに言ったんだ。見ていたら、遠くの方であいつが走り回っているんだ。するとバスが来たんだ。俺はバスに乗って帰るのが目的だわな。あいつを待つことが目的ではない。で、俺はバスに乗ってひとりで帰ったんだ。しばらくして、あいつ家にきたよ。『すみません』と謝るんだ。『どうしたんだ』と聞いたら、両替機がないから、お土産でくずしてもらおうと走りわまっていたんだと。『まあ、それはいいや。とにかく金を返せ』と言ったら饅頭(まんじゅう)の箱詰めを差し出しやがるんだ。『なんだ、これは』と聞いたら、どこも両替してくれないからこの饅頭を買ったんだと。『饅頭はどうでもいい。金を返せ』と言うと、饅頭の箱の上に8800円をのせるんだ。お釣りです、だとさ」
 結局、1ヵ月の謹慎ですんだ。その代わり、酒は禁止となった。談志の弟である立川企画の社長の提案である。
 「のらく、酒をやめるんだぞ」
 と言うと、のらく兄さんは真顔で「一生ですか?」と聞き返した。
 「一生とか、そんな話をしているんじゃない。とりあえず、今はやめろといっているんだ!」
 社長も激怒していた。

~廃業~

 その数ヵ月後、のらく兄さんは落語家を廃業した。
 「平成名物TV ヨタロー」は終了したが、それでもまだ立川ボーイズの人気が続いていたので、単独ライブをやることになった。チラシも完成し、コントの台本を私が書き上げ、いざ稽古に入ろうとした前日、いきなり落語家を辞めるとのらく兄さんが言い出したのだ。
 これには企画を立ち上げた立川企画の社長が怒った。
 「とにかく志らくの家まで詫びに行け! 志らくが台本を書いているんだ。お前がやめるということになれば、志らくはまた2人用の台本を書きなおさなくちゃならないんだ。志らくが許すと言わなければ、辞めたらだめだ!」
 社長から「これからのらくがお前の家に行くから、話を聞いてやってくれ」という旨(むね)の電話が入った。
 事務所から我が家まで1時間もあればこれるのだが、3時間待ってものらく兄さんは来ない。これには社長が青くなった。きつく言い過ぎたから、思いつめて自殺でもしたんじゃないかと心配をした。3時間半経過して、のらく兄さんがやってきた。
 「弟弟子のところに謝りに行くのは決まりが悪くてね。社長が行けというからそれで来たんだけど。途中で、お腹がすいたからカレーライスを食べてきた」
 緊張感のない人だ。近所のファミレスで一通り話を聞いて、私は、
 「兄さんの人生だから、兄さんの好きなようにやるしかない」
 と言った。
 帰り際、勘定を払う段になって、
 「ここはやっぱり兄弟子の貫禄で全部払うべきかな」
 とのらく兄さんは笑いながら言った。払って当然なのに、駄目な兄さんだな、でもこれがのらくって人なんだよな、と私は心の中で笑った。
 のらく兄さんは本当に廃業してしまった。無理にでも引きとめるべきだったのかな。止めていれば、一緒にコントをやり、それが芸の糧(かて)となり、落語にも生きてきたのではないだろうか。
 落語は下手でも、強烈な個性の持ち主だ。昨今の落語ブームで世間がほうっておくはずもない。
 落語家をやめたから酒の量が増えて、それで身体を壊して命を縮めたのではないだろうか。
 生きていたら、今ごろ志らく一門のいい参謀、おじさん格におさまっていたのではないか。
 志らくの映画にも芝居にも出演していたのではないだろうか。
 回転寿司もあの当時とは比べ物にならないほどきれいになって美味しくなった。絵皿をとって、ちょいといい酒を飲めたのではないだろうか。
 私がコントをやらせなかったら、変に人気が出ることもなく、細々とではあるが、好きな酒をチビチビやりながら、「志ん生(しんしょう)は乙(おつ)だね」なんて言いながら、長生きできたのではないだろうか。

 だけどね、兄さん、兄さんとコントをやっていたころが一番、楽しかったよ。あのころの兄さんは、だれよりも一番面白かったよ。
 今でも時折、街中で着物姿の禿げを見ると、ひょっとしてのらく兄さんじゃないかと、後を追いかけている自分がいる......。

2010年2月 9日