第二十七席 立川流鎖国論(3) 志らく伝説・中

 

 【登場人物】

 

●立川談志…… 落語立川流家元、志らくの師匠
●立川志らく…… 落語立川流真打ち、私
●落語立川流…… 立川談志が落語協会を脱会して設立。脱会によって寄席には出演できなくなり、独演会や一門会のみで活動することになった。脱会直前に弟子となったのが志の輔、脱会後に弟子になったのが談春、志らく以下。「寄席を知らない弟子たち」と呼ばれることもあり、それがタイトルの「立川流鎖国論」の由来。

 

 

~13日の「土」曜日~

 

  志らくが談志の真似を始めたぞ、と落語ファンの間に噂(うわさ)がひろまった事件がある。私が独演会に穴をあけそうになったのだ。

 「志らく独演会」なのに志らくが来ない。弟子が汗水垂らしてつないだそうだ。でも、私は談志の真似をしたわけではない。ただの勘違いである。

 

  小林小屋というプロダクションが主催する志らく独演会。冬季オリンピック開会式の日だった。独演会は2月13日の土曜日。私は日曜日だと思い込んでいた。「2月13日の日曜日」と頭にインプットされていた。しかし実際は、日曜日は2月14日で、2月13日は土曜日であった。

  この思い込みが激しいのも私の特徴だ。あとでその話はするが、とにかく「独演会は日曜日だ」と思い込んでしまっていたのだ。

 

  その日は昼からゴロゴロしていた。夕方になってテレビでオリンピックの開会式を見ていた。あともう少しで日本の入場だ。すると妻が私のスケジュール帳を見て、

 「今日、独演会じゃないの」

  と言い出した。私は笑いながら、

 「独演会は日曜日だよ、今日は土曜日だから明日が独演会だよ」

 と相手にしなかった。しかし、妻は言い返してきた。

 「だって手帳にそう書いてあるもん」

 「ならば書き間違えだ、バカ野郎」

  と、私は妻を罵(ののし)った。

 

  少し不安になって自分のスケジュール帳を見ると、そこには「2月13日土曜日市ヶ谷で独演会」と書かれてあった。

  私は「これは何かと間違えだ!」と叫んだ。

 

  13日は日曜日のはずだ。今日が土曜日ならば13日のはずがない。しかしテレビでは、アナウンサーがはっきりと「日本時間2010年2月13日土曜日、冬季オリンピックの開会でございます」と言っているではないか。アナウンサーが間違えるはずもない。

   おそるおそる携帯電話を手にしたら、マネージャーから複数回の着信履歴があった。私は、オフの日は携帯をサイレントモードにしているのでいくら携帯が鳴ってもわからない。

  留守電を聞いてみると、マネージャーの声で「志らくさん今どこにいますか、もうじき落語会が始まりますよ」と入っていた。

  時計を見ると、時刻は午後6時45分。会が始まるのは6時30分。私はあわてふためいてマネージャーに電話をした。マネージャーが、

 「今どこにいるんですか」

  と電話越しでもわかるぐらい青ざめた感じで聞いてきたので、正直に、

 「家だよ」

  と答えた。絶句するマネージャーに私は、

 「あれっ? 明日でしょ独演会は」

  と白々しく聞いた。するとマネージャーは、

 「今日ですよ! もう始まってます。すぐに来て下さい。弟子でつないでいますから」

  と叫んだ。私はその言葉を聞くと、妻に「お前が正しかった」とだけ伝え、急いで着替え、家を飛び出した。

  

~案外近い千葉~

 

  家から駅まで歩いて15分。タクシーを捕まえようとしたが、そういったときに限ってタクシーが見当たらない。とにかく走った。

  マネージャーに電話したのが午後6時45分。己の間違えに気が付き、着替えて家を飛び出し、まで15分かかるのに7時2分には電車に乗っていた。

 「我ながら凄い」と唸(うな)った。唸っている場合か!

 

  携帯の乗り換えサイトで市ヶ谷(いちがや・東京都千代田区)駅の到着時間を検索してみた。到着時間は午後7時35分。その旨(むね)をマネージャーにメールした。マネージャーから、「駅の改札に志らら(弟子)が迎えに行く」と返信があった。かなりの遅れではあるが、まあ許される範囲であると安心した。

 

  しかしこのとき、思い込みの激しい私の性格がさらなるパニックをもたらした。

  私は、独演会の場所を市川(いちかわ)と思い込んでいた。千葉県の市川だ。だからマネージャーに連絡したとき、これはとうてい間に合わないと思った。

  我が家は練馬(ねりま)である。市川までは1時間以上かかるはずだ。でも携帯で検索したら到着時間が7時35分とでた。なんだ、「千葉って近いね」と心の中で笑った。

  ちゃんと「市ヶ谷」で検索しているのに、頭では「市川」と思い込んでいるから笑える。

  高田馬場(たかだのばば)駅で地下鉄に乗り換える。

 

  髭(ひげ)を剃(そ)っている時間がなかったから、駅のホームで電車を待つ間に剃ろうとしたが、周りに人がいて恥ずかしくて剃れない。電車がホームに滑り込んできたときに、その騒音にまぎれて慌ててこそこそと電気剃刀(でんきかみそり)で髭を剃った。

  で、電車に乗り、もう一度携帯で到着時間を検索してみた。すると九段下(くだんした)駅で乗り換えとなっていて、九段下駅から3分で市ヶ谷に到着するとの表示。「これは変だ」と思った。

  そりゃそうだ。こちとら千葉の市川に行こうと思っているんだから。まさか九段下から3分で千葉県に着くはずがない。

  ここですさまじいパニックに陥る。

 

  果たして私は、自分がどこに行こうとしているのか、わからなくなってしまった。

  携帯では「市ヶ谷」と検索している。

  でも私は「市川」に行こうとしている。

  手帳を見ると「市ヶ谷」と書いてある。

  何がなんだかわからなくなり、鞄(かばん)の中をひっくり返して、マネージャーから渡された会場地図を引っ張り出した。そこには、「市ヶ谷」と書かれていた。

 

  なぜ「市川」と思い込んだのかというと、市ヶ谷で落語会をやったことがなく、市川では何回もやっているので、勝手にそう思ってしまっただけ。

 

  会場に着いて急いで着替え、

 「談志の真似をしたわけじゃない。ただの勘違いでして、家でオリンピックの開会式を見ていました。もし日本の入場を見ていたら、ここにはまだ来ていません」

  と、詫(わ)びながら笑いをとって、『短命(たんめい)』と『文七元結(ぶんしちもっとい)』の2席をつづけて演じて、客に許していただいた。

  主催者は談志の旧友で、私のことをことのほかかわいがってくれていて、遅れてきたこの粗忽者(そこつもの)を怒ることもなく、

 「弟子を鍛えるためにわざとやったんだよな」

  と豪快に笑いとばしてくれたのだった。

 

  

2010年8月 7日