第二十九席 立川流鎖国論(5) 鎖国効果

 

~落語は伝統芸能にあらず~

 私の思い込みの激しい性格というのは、鎖国の世界では良い方向に作用していると思う。鎖国とは自分の国の文明文化こそ最高だと信じ込んでいるからこそ鎖国なのであり、落語という芸能そのものが鎖国的な芸能なのだ。

 

 この芸能のおもしろさ、すごさはわからない人にはどう説明してもわからない。柳家小さんのあの間がすばらしいだとか、古今亭志ん朝の「本当ぅにぃ」という響きがたまらないなんて、落語を知らない人にどう説明できるというのか。

 

 日本人にだってこの楽しさが一部の人にしか伝わらないというのに、アメリカ人なんかにはどう逆立ちしたって理解できないだろう。

 

 「ウディ・アレンよりも落語のほうが数十倍粋なことを言っているんだぜ」

 

 なんてニューヨーカーに言ったって、ユーモアのかけらもない日本人が何を言っているんだと一笑されておしまいだ。

 

 ニューヨークで私も落語をやった。近ごろ、数人の落語家が海外で落語を披露しているらしい。下手くそな英語で落語を語っている輩もいるとのこと。その努力はたいしたものだが、落語は英語になりません。

 

 アメリカに30年ぐらい住んで、その町の匂い、その町に暮らす人種の文化と了見まで理解して初めて、落語らしきものを英語で語れる。日本の英会話教室で学んだ程度の英語力で落語を語ったって、相手には物語しか伝わらない。まあ、落語の楽しさを物語だと信じているのならばそれで仕方がないが、落語の魅力は物語にあるのではない。

 

 元来、落語とは、映画や小説、演劇になり得ない、屁みたいなくだらないものを名人がひとつの話芸にして語ったものだ。その「屁みたいにくだらないもの」の中に人生の真実があり、談志のいうところの「人間の業(ごう)」があるのだ。それを中途半端な英語で語って、アメリカ人に聞かせてどうしようというのか?

 

 私の場合は、スクリーンに字幕をだしてやってみたが、これも愚の骨頂。落語の持つ言葉の迫力と空気感は伝わったはずだが、それでも所詮(しょせん)、物語しか相手には伝わらない。

 外国人の歌手が日本に来て、片言の日本語で持ち歌を歌われたら、その歌詞の意味はわかるだろうが、おもしろくもなんともない。歌詞なんか分からなくても英語で普段通り歌ってもらえれば、客は感動する。

 森進一がアメリカにいって、「おふくろさん」を「♪マザー、マザー、ルックアップ、スカイ」なんて歌うはずがない。

 

 落語は閉鎖的な、つまりは「鎖国的な芸能」だ。だからこそ江戸時代から今日まで続いている。これが、いわゆる「伝統芸能」とは異なるところであり、笑いを主とした落語がもし「伝統」だけであったら、時代とずれすぎてとうの昔に崩壊しているはずだ。落語を100パーセント伝統芸能だと信じ込んでいる落語家の落語は、だからつまらないと言ってもいい。

 

 落語の存在価値は「伝統芸能」のそれにあるのではなく、永遠に人間の中にある真実を描くところにあるのだ。

 

~鎖国が生んだ4人~

 

 鎖国的芸能である落語。その落語を生業(なりわい)としている落語家が東京に500人ほどいる。その中で立川流の存在は異彩をはなっている。立川流は落語協会から脱退した立川談志という家元のもとに、その信者が集まった集団であり、「談志の言葉がすべて」であり、「談志の落語こそが最高だ」と思い込み、修行をし、長い間鎖国状態におかれていた。

 

 しかし、開国をした今日、そこで育った落語家が頭角を現してきた。立川流を作る前の談志にはいわゆる売れっ子の弟子がいなかった。 落語もできる小説家というキャッチフレーズの談四楼師匠が存在感を見せつけていたぐらいであろう。「談志は弟子を育てるのが下手」とまで言われた。談志は「師匠がすごすぎると弟子は育たないもんだと思っていた」と過去を振り返る。

 

 本当の売れっ子、スターは志の輔だけであろうが、落語界においてなにかと話題としてとりあげられるのは、志の輔のほか、談春、志らく、時として談笑である。この4人とも談志が落語協会を脱会したのちの立川流、つまりは鎖国状態のなかで修業を積んだ落語家たちだ。鎖国が4人を生んだのである。

 

 もっとも、私のように思い込みが激しい性格でないと、この鎖国状態に疑問を抱いてしまうかもしれない。日々疑問の中で暮らし、ついに開国となったときには、実に中途半端な芸人になってしまっている可能性がある。その点、私などは、談志が惚(ほ)れているものはすべて善だと思い込み、落語は当然のことながら、談志が愛するナツメロ、映画にいたるまで、教祖を上回る勢いでその知識を増やし、愛情を傾けながら、25年の歳月が流れたのである。

 

 だから思い込みの激しい性格、万歳なのだ……って、論理もへったくれもありません。こういう人間が落語家になったからいいようなものの、新興宗教にハマってしまったら、今ごろどうなっていたかわかりませんね。落語家になって本当によかったよ。

2010年10月 1日