【登場人物】
●立川志らく…… | 落語立川流真打ち、私 |
●落語立川流…… | 立川談志が落語協会を脱会して設立。脱会によって寄席には出演できなくなり、独演会や一門会のみで活動することになった。脱会直前に弟子となったのが志の輔、脱会後に弟子になったのが談春、志らく、談笑。「寄席を知らない弟子たち」と呼ばれることもあり、それがタイトルの「立川流鎖国論」の由来。 |
~AMとPM~
妻とニューヨークに行ったとき、とんでもない失敗をやらかした。
入門当初、落語家としてニューヨーク旅行に行ける身分になるとは想像もしていなかった。ニューヨークで落語会を開催することになり、全日空が全面協力をしてくれるというので、開催前に現地に下見という名目で妻と旅行をさせてもらったのだ。思い込みによる失敗は帰りに起こった。
帰国前夜、帰りの時刻を確かめようと飛行機のチケットを見た。「AM7:30」とそこに記されていた。でも私はまだ遊びに行きたい場所があり、勝手に「帰りは夜のフライトだ」と思い込んでいた。そのせいで、AMを午後だと脳が判断し、妻に「明日一日たっぷり遊べるよ」と話して、その晩は眠りについた。
あくる日、ほうぼうを観光し、夕方、空港に向かうバスの中でもう一度航空券を確認した。「AM7:30」と当然ながら書いてある。AMは午後だと脳が主張する。しかしAMPMという言い方はするが、PMAMとは言わない。コンビニでもampmというのがある。
午後・午前……。脂汗が流れ出す。かたくなにAMを「午後」だと思い込んでいた脳が崩れ出す。
AMと言えば、だれがなんと言おうが午前じゃないか。
持参していた英会話の本を鞄(かばん)から取り出し、念のため調べてみる。
「AM、午前のこと」
己の間違いに気がつき、勇気をだして横でくつろいでいる妻に声をかけた。
「重大な発表があります」
「なに?」
「我々の乗る飛行機は、もう行ってしまいました」
唖然(あぜん)とする妻。ただただ笑い続ける私。
仕方なく全日空と私の間に仲介役で入っていたニューヨーク在住の友人に電話して、全日空に事情を説明してもらった。それから空港そばのホテルを急遽(きゅうきょ)とってもらい、飛行機は明日の便に変えた。
飛行機代は全日空がもってくれたが、こうなると余計なホテル代は当然ながら自前。しかし所持金が100ドルしかなかった。帰るつもりだったから使ってしまったのだ。クレジットカードは使用限度を超えており、そのホテルには日本円をおろせるATMがない。ホテル料金が50ドル。夕飯が30ドルかかった。
朝になり、空港まではタクシーに乗らないといけない距離。しかし、財布には20ドルしか残っていない。
「まあ、空港はホテルの近所だろうから、10ドルあれば着くだろう」
と、自分をそうやって勇気づけた。
ホテルのカウンターでタクシーを手配してもらうと、なんとハイヤーのような車がきやがった。運転手は黒人。「ハイヤーでなくタクシーでいいです」と英語でどう言っていいかわからず、しずしずと車に乗り込んだ。
車内に料金メーターがないではないか! いったい我々夫婦はどうなるのか! 二日続けて脂汗がにじみ出てくる。
時折、運転手がなにやら私に語りかけてくるが、何を言っているのかさっぱりわからず、ただ「イエス、イエス」とだけ連呼していた。
数分で空港に到着。運転手が車から降りると、ドアを開けてくれて、トランクから荷物まで降ろしてくれようとしたので、私は「ノー、ノー」とここで初めて「NOと言える日本人」になった。
「20ドルしか持っていないのだから、そこまでお世話になれませんよ。いくらですか?」
と片言の英語で尋ねると、運転手はなにやらフィフティーンみたいなことを言っている。
150ドルか! と愕然(がくぜん)とする私だが、20ドルしか持っていないので、「ソウリー」と言いながら20ドルを渡した。
どれだけ怒るだろうかと思ったら、「サンキュー」と言ってその場を去っていった。
どうやら料金は15ドルで、私が20ドル渡したからお釣りの5ドルはチップだと思ったらしい。つまりホテルから空港まで15ドルと決まっていて、ホテル専属の車が送り迎えをしてくれていたのだ。
黒い車=ハイヤーと思い込み、黒人=恐怖と思い込んでいたために、神経をすり減らしてしまったのだった。
~『オー』と『カー』と『マンマミーヤ』~
その数年後、ラスベガスに妻と旅行した際も、くだらない思い込みをして汗みどろになったことがある。
ラスベガスでショーを三つ観る予定になっていた。日本で予約をしておいて、現地のオカダヤという店でチケットを受け取る手はずになっていた。
観る予定のショーは『オー』と『カー』と『マンマミーヤ』。8月5日に『オー』、6日に『カー』、7日に『マンマミーヤ』。
しかし、これはたんにタイトルのゴロでその順番にしただけで、どういうことかというと、一番有名なのは水をテーマにしたイリュージョンの『オー』。どうしてもこれは観たかった。それで最初に『オー』。あとはなんでもよかった。
妻が有名なミュージカル『マンマミーヤ』を観たいというのでそれを観ることにし、火をテーマにしたイリュージョンの『カー』は旅行会社の人に勧められたので観ることにしただけだ。
で、本当の順番は『オー』『マンマミーヤ』そして『カー』。でも私の中では『オー』以外はどうでもよかったので、『オー』とくれば『カー』であろう。『オー』『カー』『マンマミーヤ』の順となる。
と、まるで狛犬(こまいぬ)の「あ」といえば「うん」のようにそう覚えてしまった。
オカダヤのカウンターで、
「5日に『オー』、6日に『カー』、7日に『マンマミーヤ』で予約をしています」
と告げると、受付の東南アジア系の人がいぶかしそうな顔をして、
「『マンマミーヤ』は6日ですよ」
と言ってきた。私は「そうですか」と言って、そのままチケットを受け取った。そして妻に、
「あいつ、バカだね。6日は『カー』なのに」
と笑った。
「6日に『カー』を観る」と思い込んでしまうと、その間違いを指摘されても気がつかない。ましてやその間違いを指摘した人間が「自分より馬鹿だ」と勝手に思い込んでしまう粗忽者(そこつもの)の私であった。
予定通り、5日に『オー』を観て6日を迎えた。『カー』は我々が宿泊をしていたMGMホテルの中にあるシアターでやっていた。PM7時の開演。もうAMとPMは間違えない。
ホテル内でくつろぎ、6時半になり、そろそろシアターに向かおうと、チケットを確認した。すると何べん見てもチケットには「『カー』開催日8月7日」と書いてある。私はパニックに陥った。
そこで真っ先に頭に浮かんだのが、いわゆるダブルブッキング。8月7日に『カー』と『マンマミーヤ』の二つのショーのチケットを購入してしまったと思ったのだ。
妻に、
「『カー』は今日じゃないよ。明日だった。明日は『マンマミーヤ』だけれども、こうなったらどちらかあきらめないといけないよ」
と詫びた。
しかし、そう言った直後、オカダヤの店員の言葉が頭をよぎった。
「『マンマミーヤ』は6日ですよ」
そこで初めて己の間違いに気がつく。
「今日は『マンマミーヤ』だった。会場となるホテルは、マンダレイベイだ。7時の開演までまだ30分あるから、急ごう!」
妻にそう告げたのだが、『マンマミーヤ』のチケットは部屋のサービス金庫の中であった。慌てて部屋に直行。しかし、ラスベガスのホテルはデカい。日本のホテルとはケタが違う。
MGMは5000人収容できるデカさ。ホテルそのものが町なのである。
エレベーターに飛び乗る。そういったときに限って、金髪のガキがすべての階のボタンを悪戯(いたずら)して押しやがる。
各駅停車で自分の階まで行く。エレベーターを出てからが遠い。数百メートルの距離があった。
全力で駆けて、チケットを手にし、エレベーターの中で見てみると、開演は7時半と書いてあった。一安心である。
MGMからマンダレイベイまではそれほど遠くない。ホテルの正面玄関からその姿が見える。MGMの正面が、ホテル内にジェットコースターがあるニューヨーク・ニューヨーク。通りをはさんで左前に子供のお城みたいなエクスカリバー、その隣がピラミッド型のホテルルクソール。その隣が金ぴかに輝くマンダレイベイである。歩いて5分といった感じだ。
でもこれが間違い。旅行会社の人にさんざん言われていた。
「建物がすべて巨大なので、距離感が分からなくなりますよ。すぐそこだと思っても30分はかかると思ってください。それに真夏のラスベガスは想像を絶する暑さです。もともと、砂漠にホテルを建てたのだから、暑いに決まっていますがね。だから移動はなるべくタクシーかバス、モノレールを使ってくださいね」
そう言われても、新宿駅南口から出てすぐ目の前に高島屋があるような感じでマンダレイベイが見えている。どうも日本人という民族は、タクシーで1メーターで降りるのは運転手に申しわけないという気持ちが働くみたいだ。
時計を見ると6時45分。妻に私はこう告げた。
「タクシーに乗る距離じゃない。第一、運転手さんに申し訳がない。歩いたって5分で着きそうな距離だ。旅行会社の人間の言葉を信じたとしても、せいぜい15分だよ。7時に到着すればちょうど開場時刻。それにルクソールのピラミッドと横に鎮座している偽物のスフィンクスをそばで見たいからさ、歩くことにしよう」
二人はトコトコ歩き出した。
すると、本当に遠いんですね。途中から走ったね。灼熱(しゃくねつ)の砂漠を妻と汗みどろになりながら。
ピラミッドもスフィンクスも目に入りゃあしない。シアターに着いたのがなんと7時25分。新宿駅南口から高島屋まで40分かかってしまったのだ。
おかげで肝心の『マンマミーヤ』の上演中、疲れから何度も船をこいでしまいました。