第十六席 朝寝坊のらく 上

 【登場人物】
●立川談志......落語立川流家元、志らくの師匠
●朝寝坊のらく(前座名・談々)......故人。落語立川流落語家、志らくの兄弟子
●立川文都(前座名・関西)......故人。落語立川流真打ち、志らくの兄弟子
●立川談春(前座名・談春)......落語立川流真打ち、志らくの兄弟子
●立川志らく(前座名・志らく)......落語立川流真打ち、私

 のらく兄(あに)さんのことが忘れられない。時折、夢に出てくる。そのとき、私が必ず言う言葉が「なんだ、兄さん、生きていたんだ」。

~酒のために死す~

 朝寝坊(あさねぼう)のらく。前座名を立川談々(だんだん)といった。1954年生まれだから、志らくより九つ上である。談志に入門した時点で禿(は)げていた。その禿げ方はコントで使うハゲヅラのようであった。志ん生(しんしょう)と安酒をこよなく愛した噺家(はなしか)であった。
 死んでしまったらしい。「らしい」というのは、私は葬儀にも出ていないし、親族の方から直接訃報(ふほう)を聞いたわけでもない。ただ、落語ファンの人から、のらく兄さんの葬儀に参列したとを聞いただけ。
 だから今でもひょっとしたらどこかで生きているのではないかと......いや、やっぱり死んじゃったんだろうな。生きていたら、顔ぐらい出すはずだもの。

 のらく兄さんは二つ目になって、少し売れて、それで落語家を廃業して、やがて酒のため死んでしまった。
 第一印象は悪かった。私が談志の弟子になろうと思っていたころ、落語会で高座返し(座布団を返したり、演者名を書いた「めくり」をめくる役割。前座が担当する)をしている彼を見たとき、なんて貧相な前座なんだろう、それに馬鹿そうだな、と呆(あき)れたのだ。
 当時、談志が、『現代落語論』のパート2『あなたも落語家になれる』を出版して、その中で「今の前座の弟子は馬鹿ばかり。落語を全く覚えようともしねえんだ」と書いていて、私は自分が弟子になったら師匠が驚くほど落語を覚えてみせるのに、と思い、師匠を嘆かせる弟子を軽蔑(けいべつ)していた。そんなときに、のらくを見たのだから、こいつが師匠の言う「馬鹿」かと思ったのである。

~その芸にとまどう客~

 入門してしばらくは、のらく兄さんに会う機会がなかった。というのも、前座は人間修業の名目で築地の魚河岸(うおがし)に通わされていたのだ。のらく兄さんの行き先は包丁屋。不器用な人だったが、包丁とぎには才能があったらしく、親方から随分とかわいがられていたそうだ。落語家を辞めて後継ぎになれ、と言われたこともあるらしい。
 入門して1ヵ月ぐらいで初めて対面した。実に優しいおじさんだった。気が小さくて、声も小さい。つぶらな瞳(ひとみ)。ちょいととんがった口。小柄でおっとりとした善人であった。
 とにかく天然で、やることなすこと実にトンチンカン。談志が「おい、談々、のせものをよこせ」と言ったのを聞いて、のせものとは落語家の符丁で「食べ物」のことなのに、彼は談志の頭の上に帽子をのせてしまった。
 落語はからっきし下手。志ん生の真似(まね)をしているつもりなのだろうが、前座がそんなことをしたって芸になるはずもない。志ん生はずぼらで、かなりいい加減に落語をやっているようにみえるが、若いころ、どれだけ稽古(けいこ)をしたことか。
 のらく兄さんは、志ん生のずぼらなところだけを真似する。だから本当にずぼらな芸になってしまい、そのうえ声が小さいから客はどう反応していいかわからずただただとまどう。

 『どざえもん』という小噺(こばなし)が大好きで、どういう小噺かというと、
 「兄ぃの前だが、昨日大川で水練の達人を見たぜ」
 「どんなんだった?」
 「顔を水につけたまんま、一度も息継ぎをせず、すーっと川下に向かって流れていったんだ」
 「おい、それはひょっとしたらどざえもんじゃねえのか?」
 「いやぁ、名前までは知らねぇ」
 のらく兄さんはいつもこの小噺をやっていた。一度、前にあがった落語家がこの小噺をやってしまったことがあった。さすがにあきらめるだろうと思っていたら、高座にあがったのらく兄さん、
 「えー、ただ今、前の人がどざえもんの小噺をやっておりましたが、私もこの噺が大好きなので、私もやってみましょう」
 と言って、まったく同じ小噺を語り始めたのだ。
 「いやぁ、名前までは知らねぇ」......ったて受けるはずがない。客はいい迷惑である。

~「掃除は野暮だよ」~

 のらく兄さんの至福の時間は酒を飲んでいるときである。一番のお気に入りの飲み場所は「回転寿司」。
 「いいよ、回転寿司は。まず、3枚ほど好みの皿をとるんだね。100円のやつね。で、上の魚だけを剥(は)がして、これを肴(さかな)にちびちび酒を飲むんだ。2合は飲めるね。で、お腹がすいたら、残ったしゃりをガリで食うんだ。乙(おつだね」
 ちっとも乙じゃない。貧乏臭いだけ。でも、かわいらしい人でもあった。
 師匠が海外旅行に行くとき、見送りの際、のらく兄さんはすっと師匠のそばにより、「師匠、ご無事で」とお守りを渡していた。お母さんのようであった。

 師匠の家の大掃除をするとき、志らくと談春(だんしゅん)兄さんは師匠の目の届かないところに行って、掃除をする。
 談春兄さんの掃除はひどかった。師匠のテーブルの上を拭(ふ)くのに、物をどかさないのだ。布巾(ぞうきん)を端を持って、物と物の間をつーっと通らせるだけ。そして師匠が談春兄さんが掃除している部屋に入ってくると、何気なく隣の部屋に逃げてしまう。師匠が隣に来ると、また次の部屋に逃げるのだ。当時、師匠の家にはパックマンというゲームのマシーンが置いてあって、我々は師匠から逃げる談春兄さんを見ては「パックマンだ」と笑ったものだ。
 のちの文都(ぶんと)、当時の関西(かんさい)兄さんは師匠が見えるところで必死に掃除をする。「わては掃除をしてまっせ!」というのをアピールしていたのだろうが、師匠の目に付くところにいるということは、その分だけ小言をくらいやすくなる。のべつ怒鳴られていた。
 で、のらく兄さんは力仕事は一切せず、師匠の書斎のすみで、談志の資料の整理を淡々とこなしていた。師匠が頼んだわけでもないのに、まるで自分は談志の秘書のような顔をして整理をしていた。
 「兄さんも掃除をしてよ」と言うと、
 「掃除は野暮だよ」
 前座のセリフではない。

~カモのらく VS ギャンブラー談春~

 前座のあいだは、落語はいっこうにうまくならなかった。のべつとちっていた。とちっても落語家はうまいことごまかすものだが、のらく兄さんはそれができない。ただただ慌てふためく。その姿が面白いので、わざと間違えやすい落語を、私と談春兄さんでやらせたものだ。
 「おじさん(自分でおじさんと言っていた)、今日、なんの落語をやろうかな。『狸(たぬき)』はやりすぎて飽きちゃったし」
 「兄さん、たまにはちょいと珍しい噺をやってくださいよ」と談春。
 「この間、志ん生の『千早振(ちはやふ)る」をテープで聴いたんだけど、あんなふうにやりたいね」
 「やったらいいじゃないですか」と志らく。
 「でも、まだちゃんと覚えていないんだよ」
 「兄さんならば、一(いち)か八(ばち)かでできちゃう」と煽(あお)る談春。
 「兄さんの『千早』、聴きたいなぁ」と無責任なことを言う志らく。
 「じゃあ、ちょいと冒険してみようか」と、まんまとひっかかったのらく。
 案の定、途中でセリフが出てこないで、高座の上で立ち往生。客は凍りつく。舞台そでで大爆笑の談春と志らく。この二人はピノキオをだます猫と狐である。

 時効だから話すが、博打(ばくち)をしても、のらく兄さんはよく負けていた。一度、談春、のらく、志らくでトランプ博打をしたことがある。私はギャンブラーではないが、ここ一番の集中力がすごくて、時折神がかり的になることある。だからあまり負けない。談春兄さんは根っからのギャンブラー。本物である。のらく兄さんは......ただの禿げちゃびん。二人からすると良いカモだ。
 数時間の後、談春兄さんが大勝をして、のらく兄さんはおけらになってしまっていた。帰り道、のらく兄さんがか細い声で、
 「談春、随分と勝ったんだから、おじさんに帰りの電車賃をだしてくれないかい」
 すると談春兄さんは、
 「あれ? 帰りの足代も計算していなかったの? 博打をうつ資格がないな。金はあげないよ」
 と笑いながら言い放った。のらく兄さんはしょんぼりして、私に愚痴をこぼした。
 「おじさんは情けないよ。ひとまわりも下の子供にこんなことをいわれてね」
 この「子供」という言葉に談春兄さんが怒った。
 「子供に博打で負けるやつがどこにいるんだ! 千葉まで歩いて帰りやがれ!」
 のらく兄さんは千葉に住んでいた。私がそっと交通費を貸してあげた。それなのに、
 「志らく、今日、ギョーザを食べたでしょ。口が臭いよ」
 金を貸してくれた人に言う言葉じゃない。

 1988年3月、のらく、文都、談春、志らくは、二つ目に一緒に昇進した。そして1年後、私たちは、「平成名物TV ヨタロー」(TBS)に「立川ボーイズ」として出演し、一躍人気者となるのである。

(つづく)

2010年2月 1日