料理は快楽である。
包丁でゆっくりと野菜を半分に切ったときの、その包丁の感触は快感だし、野菜の断面の美しさには感動する。
熱湯に小松菜を入れ、その緑が刻々とさえわたってゆくのを見るのは喜びであり、いんげんをゆでるとき、蒸気とともに、その香りがふわりと立ちのぼる瞬間に恍惚(こうこつ)とする。
じゃがいもをゆで、最後にゆで汁を捨てて中火で水分を飛ばすとき、余熱の入りを計算して、どれぐらいのしっとり加減で仕上げようか、と思案しつつ鍋をふれば、緊張の向こうに充実がみなぎる。
焼くときにはジューっという音を楽しみ、はじける香りを吸い込む。煮込み鍋のなかの食材が刻々と変化してゆく不思議に心を躍らせ、オーブンをのぞきつつ、いかにもおいしそうなテクスチャーを想像してうっとりとする。
料理は、ほんとうに楽しくて仕方がない。
ところが、最近では、「レンジでチン」が支持され、手抜きレシピが人気を集めている。料理とは、なるべく時間をかけたくないと思うほど、いやなことなのだろうか。
私にも、料理すること自体が苦痛だったことが一度ある。学生のころ、夏に合宿に行き、黙々とにんじんやじゃがいも、たまねぎなどの皮をむき、切っていたときがそれだ。それらの野菜はやがて、参加者の総意で、市販の焼き肉のたれやカレールーにまみれてしまうことが決まっていた。当時インドカレーにはまり、市販のソースを嫌っていた私には堪(た)えがたかった。料理のできあがりが自分の思い通りにゆかないとき、自分が望むおいしい料理が完成をみないとき、料理は苦役となる。
自分がおいしいと思い、心底食べたいと思える料理を作ることができれば、それが作られてゆく過程のひとつひとつに愛着がわく。そうなると作ることが楽しくなり、料理がどんどん好きになる。すると向上心がわき、さらに自分が食べたいと思う料理を作れるようになる。そんな「正のループ」に入ってゆくことが、料理がうまくなる方法だと思う。少なくとも私は、こんなふうにして、料理好きになり、今や料理を生業(なりわい)にしている。
子育てや仕事で忙しく、料理に時間をかけられない、という人もいるだろう。そういう人は、「手抜き料理」ではなく、「簡単でシンプルな料理」を作ればよい。
たとえば、得体の知れない市販の唐揚げの素を揉み込んで作るような「手抜き鶏唐」を作るくらいなら、シンプルに塩こしょうだけをふってフライパンで焼いた鶏肉のソテーを作ればよい。そのほうが、健康のためにもいいし、何よりもおいしい。
手をかけるべきところで手をかけず、その結果、仕上がりの味に悪い影響がでるのが「手抜き料理」であって(その「手をかけない」部分でよく使われるのが電子レンジだ)、「すぐに作れる料理」が「手抜き」なわけではない。本来ならば10時間かかるものを手を抜いて「5時間で作る手抜き料理」もあれば、「3分で作れるまっとうな料理」もある。忙しければ、後者のような料理を作ればいいのである。
この連載では、作るのがとても楽しい、自分が食べたい、自分のための料理を紹介してゆく。
素材はできるだけ旬のものを使う。長く畑を楽しんできた私としては、収穫の喜びと料理の喜びは直結するからだ。目標とするのは、作る過程とそれを食べるまでの一連の作業のなかで、匂い、音、美しさ、舌触り、そしてもちろん味まで、五感のすべてが刺激され、作り手本人が、なんだかうきうきしてくるような料理だ。そんなふうに料理を作ることができれば、その「うきうき」が、それを食べてくれる人すべてに伝わって、みんなが幸福感に包まれる、と思うのである。