第19回 「論理」と「心理」のギャップ

サッカーのワールドカップが終わりました。予選リーグを見事に突破してベスト16に入った日本代表は、暗いニュースばかりの日本全体を勇気づける素晴らしい活躍でした。でもよく考えると、あの前哨戦4連敗後の日本代表への風当たりの厳しさはどこへ行ってしまったんでしょうか。世論というものもまったく移り気なものだと思います。

またその逆なのが、内閣支持率です。ここ数年の日本は、世界でも類を見ないリーダ交代の頻度の高さを誇って(?)います。そして、新しいリーダーの誕生とともに支持率が一気に上がり、交代直前の政権末期には驚くほどにこれが低下する……という傾向は、どの内閣にも見られます。

しかし、内閣や総理大臣のパフォーマンスは、そんなに短期間で落ち込むものなのでしょうか。

 

どうもこういった傾向を見ていると、何らかの対象に対する人間の心理は、実態以上に「ぶれ」が大きいもののように思えます。何であれ、対象の側はそんなに劇的には変化していないはずなのに、ちょっとした印象次第で、いいときには実態以上によく見え、悪いときには実態以上に悪いほうに振れてしまう傾向があるのは間違いないでしょう。

これを図式化して見てみましょう。図1を見てください。

 

 

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「実態」の部分を実線で、それを見ている人の「印象」を点線で示しています。これらの間には常にギャップが存在し、それは「あまりぶれない実態」に対して「激しくぶれる印象」という構図から生まれています。

これを言い換えると、「実態」は「論理の世界」、「印象」は「心理の世界」という、「論理と心理のギャップの構図」と見ることができるでしょう。

このことが、本連載でここまで話してきた「象」や「フィルター」の話とどういう関係があるのか、お気づきでしょうか。

 

「象」はここでいう「実態」、つまり論理的な対象を象徴するものであり、「フィルター」が「印象」、つまり心理を象徴するものだったのです。別の見方をすれば、コミュニケーションギャップの根本原因の一つは「実態と印象のギャップ」あるいは「論理と心理のギャップ」であるということなのです。

論理と心理との間には常に大きなギャップがあるにもかかわらず、人というのはこれになかなか気づきません。それは無意識のうちに、自分は常に論理的(あるいは合理的)に行動しているような大いなる錯覚に陥っているからです。

ここで図2を見てください。

 

 

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私たちは無意識のうちに、論理的に正しいことは自分の中でも正しいと判断していると思い、逆に、正しくないことは自分でも正しくないと判断していると錯覚していますが、実は、論理的には正しいことを心理的なフィルターで正しくないと思い込んでいたり、また逆も真であるというわけです。

ここでいう「思い込み」というエリアがコミュニケーションギャップの温床であり、またビジネスでいう「商売のネタ」も常にこういう領域に存在します。

 

これは例えば、連載の第11回で取り上げた「価格」の話があてはまります。

ビジネスの(粗)利益は、単純化すれば「売価-原価」ですが、「原価」はものの積み上げですから「論理的」に決まる一方、売価は心理的に決まるものです。

つまり、「作るのに手間や材料費がかかるもの=高いもの」というのが「論理的に」導いた売価になるわけですが、「顧客が知覚する価値=価格」は多分に心理的に決まります。

したがって、このギャップを発見することができればここにビジネスチャンスがあるというわけです。

 

こうしたギャップの構図は、ほかにもさまざまな形で存在しています。例えば「事実」とその「解釈」という関係です。一つの事実に対しての解釈にも常にギャップが存在し、「ぶれるはずのない事実」に対して、解釈は「大きくぶれ」ます

これは「時間的なぶれ」というよりも、「人によるぶれ」が大きくなり、これがコミュニケーションギャップを生むことにもなります。

 

また「自分自身」という対象物を見る場合の、「自分の主観的な目」と「他人の客観的な目」の違いも、この構図に当てはまるでしょう。これはまさに先述の「論理」と「心理」の違いで説明することができます。

自分を見る自分自身の目というのは、「心理」以外の何ものでもありません。「こう見えているはずだ」とか「こう見えて欲しい」という心理が大きく働くはずだからです。

これに対して他人からは、冷酷かつ論理的に見えているはずであり、ここにも認識の大きなギャップが存在することになるでしょう。

2010年7月15日