コミュニケーションギャップとはどこから来るのでしょうか?
私は大きく3つの原因から来ていると思っています。もちろん詳細に見ていけば、100人が100回体験するコミュニケーションギャップの原因は、100×100=1万通りの原因があることでしょう。しかし、これらの原因も根本原因をさかのぼっていけば、根っこの部分にあるのはほとんどがこの3つで説明できるのではないかというのが私の持論です。
では、その3つを順番に一つずつ解説していきましょう。
まず1点目、人間は例外なく「自分勝手」だということ。ある意味、これは当たり前といってもよいでしょう。
「他人の立場に立って」とか「相手の目線で」などというのは簡単ですが、これほど難しいことはありません。
物理的に相手の目線に立つなどということはもともと不可能ですし、ひとにはそれぞれ、それまでの人生経験や知識からくる固有のものの見方というものがあります。ところが私たちは往々にしてこれをすっかり忘れ、他人も自分と同じものの考え方をしていて当然と思い込んでしまうのです。あるいは、自分中心にものごとを考えていることの自覚が足りないために、他人とのものの見方のギャップが発生します。
私たちは悲しいまでに、自分中心のものの見方しかできません。これを強く認識していないことによって、コミュニケーションギャップが発生します。
続いて2番目の原因ですが、これには私が常に引用するアイルランドの劇作家のジョージバーナードショーの言葉に尽くされます。それは、
「コミュニケーションにおける最大の問題は、それが達成されたという幻想である」
というものです。つまりは、私たちのコミュニケーションはすべて「達成されていない」すなわち私たちが「伝えた」と思っていることはいっさい「伝わっていない」と思え、ということです。
そもそも私たちは、なぜコミュニケーションでストレスを感じるのか?
それは勝手に「自分の伝えたことは相手に伝わっている」と思い込んでいるからでしょう。「伝わっていると思っている」ことが伝わっていないとストレスになるのです。
そうではなくて、「伝わっていない」ということを前提にすれば、「何回も同じことを伝えても何にも伝わっていない!」とストレスに感じることも少なくなってくるでしょう。
伝わっていないのは「当たり前」のことですから、何とかして伝えようと、手を変え品を変えて伝え方に工夫を凝らすことでしょう。
そして3番目の原因が、「象の鼻としっぽを別々に見ているから」ということになります。お気づきの通り、これが本連載の主テーマである「象の鼻としっぽ」ということになります。これはもともと皆さんご存知のインドの昔話から引いています。
目かくしをした複数の人たちが、1頭の巨大な象の一部を必死に撫(な)ではじめます。象の鼻を触った人は、「象とは、そこそこの太さで自分の身長ほどの長さがあって形が自由に変形するもの」であると思い、かたやしっぽを触った人は「像とは細長いロープひものようなもの」という印象を持つに違いありません。この2人が「象について」語り合ったとしてもほとんど話が通用するわけはありません。
この話はだれにも理解できる「たとえ話」です。ところが実際は私たちの身の回りのコミュニケーションというのは多かれ少なかれ、すべてがこのメカニズムになっているのではないかと私は考えています。
つまり、同じものを認識した上で何らかの議論をしているというより、もともと違うものを同じものだと認識しながらコミュニケーションをしていることが、ギャップのほとんどの根本原因であるということです。
では具体的に、「1つの象の鼻としっぽ」を見ることによるコミュニケーションギャップというのはどういうものがあるのでしょうか?
次回からはそれをさまざまな場面と具体例で解説していきたいと思います。