第8回 認識の対立とフィルターの大小

 今回は、個々人が持つフィルターの「枠の大きさ」が、個人間の認識の違いにどういう影響を与えるのかについて説明したいと思います。
 外資系企業で人材を採用したり評価したりするときの「永遠のテーマ」の一つに、
 「『実務スキル(例えば経理や営業)がいま一歩でも英語(語学)ができる人』を採用・評価すべきか、あるいは『英語がいま一歩でも実務スキルに優れた人』を採用・評価すべきか」
 というものがあります。
 これらが「両方できる人」が当初の募集要望事項には入っているのですが、当然のことながらこういう「スーパー(ウー)マン」はめったにいないので、上記のような選択に迫られることになります。
 これはもちろん、その会社や当該業務固有の状況があるので「正解」といえるものはないわけですが、こういう場面に遭遇すると、人間の価値観がはっきりとあらわれます。
 実務に優(まさ)る「実務派」の人は英語力を軽視し、「あいつらは単なる『英語屋』じゃないか」、逆に語学堪能な「英語派」の人は「英語もできないくせに......」と考え、お互いを批判します。
 このメカニズムを各個人が持つ「フィルターの大きさ」という観点で説明してみましょう。

 まずは図1を見てください。同じ大きさの象でも、大きな枠のフィルターで見ると小さく見え、小さな枠のフィルターで見ると大きく見えることがわかるでしょう。
 「小さい枠」で見ている人は自分の枠が小さいことに気づいていないので、それが「画面いっぱい」に広がって見えます。



図1


 次にこの構図を使って、先の「英語か実務か」という永遠のテーマを見てみましょう。
 「英語派」のAさんと「実務派」のBさんが、お互いの能力をどう判断するかを表現したのが図2です。



図2


 まず図の上半分を説明しましょう。
 これは、英語はできる(「大きい象」で表現)が実務ができない(「小さい象」で表現)というAさんの実力を、異なる「フィルター」を持つAさんとBさんがどう見るかを示したものです。
 Aさんの自己評価ですが、得意な英語力は大きな枠で見ても枠いっぱいに見えるので、「十分だ」と判断します。一方、苦手な実務は(必要性を低く見積もっている分)小さなフィルターで見るために、これも「十分だ」と判断してしまうわけです。
 これに対して、実務を得意とするBさんに、「同じ2頭の象」はどう見えるでしょうか。まず英語が苦手なために「小さなフィルター」で見る大きな象(英語力)は、「判定不能」と判断してしまいます。小さいフィルターでほんの一部分だけを見ているだけでは、それがいいのか悪いのかすら判断できないからです。
 反面で得意な実務については、フィルターが大きい分、Aさんが見る象よりもだいぶ小さく見えます。つまり、英語力は「判定不能」と判断し、実務力は「不十分」であると判断してしまうわけです。
 これとまったく逆に、Bさんの実力をAさんとBさんがそれぞれどう見るかを示したのが図2の下の図です。先ほどとは逆の構図になるのがおわかりでしょう。
 見る側の得意領域の違いによって、一人の人間の能力がまったく異なって見え、結果として正反対の評価になってしまうというわけです。

 以上述べてきた「英語か実務か?」という構図は、いろいろな事例に見られます。
 例えば、「『理』にすぐれた人がいいのか、『情』にすぐれた人がいいのか」なども、「永遠のテーマ」といえる構図です。これも往々にして「理に勝っている人」は、人間関係で出世した人を揶揄(やゆ)し、「あいつは仕事もできないくせに、おべっかばかりで昇進した」などとばかにします。一方、「情に勝っている人」は、「理論派」の人たちのことを「正論ばっかり言っていて役に立たない」などと否定したりします。
 ほかにも、いわゆる「理系」と「文系」がお互いを見る視線も、同じ構図だったりするのではないでしょうか。

2010年2月 3日