第17回 「話が長い」と感じるメカニズム

皆さんの周りにも「話が長い」人がいるでしょう。この「話が長い」と感じるのはどういう場合なのか、それがどういうメカニズムで起こっているのか、そして皆さんがそうならないためにはどういうことを心がければよいのかについて、解説したいと思います。

 

まずは、どういうときに「話が長い」と感じるかについて考えてみましょう。

当たり前の話ですが、話が長いかどうかは絶対的な時間の長さとはほとんど関係がありません。5分でも長いと思う話もあれば、2時間でも短いと思うこともあるからです。ではその原因は何なのか、皆さんが最近感じた「話が長い」場面を頭に思い浮かべてみてください。

「長い」と感じる話には、大きく3つのパターンが考えられるのではないでしょうか。

 

一つめは話の「内容」です。

面白く要領を得た内容の話を「長い」と感じることはあまりないでしょう。逆に内容に関心がもてないとか、つまらない、あるいは要領を得ないまわりくどい話を「長い」と感じるはずです。

 

そして2つめの要素は、「長さの期待値」との相対的関係です。

同じ10分の話でも、もともと20分だと思っていた話であれば「短い」と思うでしょうし、5分と想定していた話であれば「長い」と感じることでしょう。

例えば、「結婚式のスピーチ」と言えば大抵の人は「5~10分が相場」という暗黙の期待値がありますから、そこで30分話せば(よほど話が面白くない限り)「話が長い」という感想を持たれることでしょう。「決められた時間を大幅にオーバーして話す」というのも同じ現象です。

 

そして最後の3つめ、これが本テーマの「象」の話に関連してきます。例えば誰かに「週末どうだった?」という質問をしたときの相手の回答が、「土曜日は6時に起きてね、着替えてから朝ごはんを食べようと思ったんだけどパンがないのに気づいてね、それでコンビニに言って食パンを買って来たの。それからTVを見ながら朝食を取ってね……」と続いたら、間違いなくあなたは「いったいこの話はどこまで続いて、いつ終わるんだろう?」と感じるに違いありません。

この「いつ終わるんだろう?」型の話が「話が長い」と感じられる3つめの原因です。

これは何が原因で起きるのかと言えば、「はじめに話の全体像が提示されていない」ことが原です。もちろん話し手の頭の中では全体像はあるわけですが、それは聞き手のほうにはまったく伝わっておらず、表に出てきた会話の部分しか見えていないので、「一体これはどこまで続くんだろう……」というふうに感じてしまうわけです。

先ほどの例で言えば、「土曜日に伊豆に日帰りドライブに行ったんだけど、出掛けにトラブっちゃって大変だったよ」という「全体像」を示せば、相手もきっと興味を示して「なになに? どうしたの?」ということになるでしょう。その後で先ほどの話が始まれば、まったく同じ話でも「何気ない日常からどんなトラブルが起こったんだろう?」というふうに聞く側の準備ができるので、興味を持って聞いてもらえるはずです。そうすれば「話が長い」とは感じられはしないでしょう。

以上の話を例によって「象」の話に置き換えてみます。図1を見てください。

 

 

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図の上半分が、はじめに会話の全体像が共有されないままスタートした場合の、話し手と聞き手の頭の中を示しています。

話し手のほうは(当たり前ですが)自分が話そうとすることの全体像を把握した上で話を始めますから、大体全体がどのぐらいの大きさでどういう格好をしていてて……ということを理解して話しています。しかし、その話を初めて聞く聞き手側は、そこまで聞いた情報しかありませんから、一体その話はどういう位置づけのものなのか、どこまで話が続くのか、といったことがまったくわからずにいら立ってしまうことになります。

逆に図の下半分は、はじめに全体像を共有した会話です。全体像を聞き手の頭の中に置くことによって、聞き手は「いまどこのあたりの話をしているのか」あるいは「これから話がどういうふうに展開していくだろうか」ということが、おぼろげながら理解できるようになるのです。

 

ここまで「話のはじめに全体像を共有する」というお話をしましたが、これをやらなくてもよい、あるいはやるべきではない場合もあります。それは、「いい意味でのサプライズ」を起こしたい場合です。あえて全体像を共有しないことで、相手が勝手に常識的に想像しはじめた「全体像」をぶちこわし、まったく違うものを出すというのがこの作戦です。

ただし、これはあくまでも「いい方向への」サプライズにできるとわかっている場合、あるいは話術が巧みな人の高等テクニックです。普通の人が普通に話すときには「まず全体像」のアプローチのほうが有効な場面がほとんどでしょう。

2010年6月21日