はじめに 価値観の違いを楽しむことが、乱読の醍醐味だ

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読書は僕にとって最高の娯楽だ。

電車の中ではもちろん、トイレでも、風呂の中でも、暇さえあれば本を読んでいる。トイレで読むときには、いつまでも読んでいたいので、早く用が済んでしまうと悔しく思う。風呂で読むとカバーがふやけて破れたりするが、最近は外して読むことを覚えた。
活字中毒である。

今までどれくらいの本を読んできただろうかと、改めて考えてみた。今住んでいる家にはざっと見て数百冊の本がある。もう捨てられてしまった本も多く、特に雑誌はほとんど捨てられたが、それも合わせると全部で数千冊はあるのではないかと思う。僕は買ったものを読まずに放っておくことはほとんどないので、それだけの本を読んできたことになる。

「なぜ本を読むのか」と聞かれたら、僕は「面白いから」と答える。
中には一見どうしようもないような本もある。しかしどんな本でも、読んでみるとそれなりに面白いのだ。なにしろ、本になるくらいの話なのだから。だからちょっとでも目についた本は片端から買って乱読することにしている。

じつは若いころは、読む本が偏っていた。社会運動にかかわっていたこともあるので、自分の主張に合致するものだけ読み、敵対する意見が書かれている本はいっさい読もうとしなかった。自分と同じ意見を読むのは心地よい。だから人はすぐに偏っていく。

それが変わったのが30代後半から40代にかけてのころだった。何の偏見も持たずにできるだけいろいろな本を読もうと思った。だから今あらためて自分の本棚を見てみると、昔の自分だったら絶対買わない本もある。世の中にはさまざまな価値観があることを認め、その価値観の違いを楽しめるようになった。もしかしたらこれが「大人になる」ということなのかもしれない。

とはいえ、家に散乱している本をざっと見てみると、ひとつの傾向があることに気づく。
まず、小説がない。理由をひとことで言うと、「読むのがかったるいから」だ。物語は映画とかテレビドラマで見るほうがずっと楽しいと思っている。小説を読まずに何が読書家だ、と思われるかもしれないが、読む気が起こらないのだからしようがない。
多いのは経済の本や科学の本。とくに世の中の常識をひっくりかえすような、新しい見方を教えてくれる本が好きだ。

この連載では、今まで僕が乱読してきた本の中から、特に気に入ったものを紹介していこうと思う。

2009年8月28日