11冊め 今も変わらない「差別」の実態を知る『差別と日本人』

確率論的思考

人が本を買う・買わない、という判断は当人でもよくわからない場合が多いと思う。なぜ買ったのか、と聞かれても、特に理由を答えられないことはよくある。
書店をぶらついていて、たまたま目についた本をすぐ買うこともあれば、本屋に行くたびにいつも横目で見て、どうしようかと迷って、ある日突然気が向いたときに買うこともある。

この『差別と日本人』という本は、後者だった。書店に行くといつも目立つ所に置いてあり、なんとなく気になっていたのだが、買わなかった。

僕は若い頃、社会運動に参加していたことがあるから、「差別」という問題については、そのころに勉強したことがある。
「支配層が被支配層を統治する仕組みとして、差別という構造を作り――云々」
この本にも、きっとそういうことが書いてあるにちがいない、と何となくそう思って、買わなかった。

結局、発行されてからずいぶん経ってから買ったのだが、そのきっかけは、ある勉強会に参加したとき、そこで一人の女子学生が、この『差別と日本人』という本を読んだ、すごく考えさせられた、という話をしていたこと。「こんな普通のお嬢さんが読むほど浸透してるのか」と思い、買うことにした。

この本は、元自民党の国会議員だった野中広務さんと、在日朝鮮人である辛淑玉(シンスゴ)さんが、差別問題について対談したものである。野中さんも辛さんも、かつては差別を受ける立場だったこともあり、生々しい話もある。

この中でいちばん納得したのが、辛さんが、「差別とは享楽なのだ」と言っているところ。差別は、する側にとっては、娯楽であり、エンターテインメントなのだ。先に書いたような「支配層が統治するための手段」ということもあるかもしれないが、実際は、「娯楽」として、近くの手ごろなものを差別しているだけではないのか。

差別とは娯楽である。そういう本質的なところを自覚していない人間は、「自分は差別などしていない」と自分で思っていても、結局は無意識に、気楽な世間話などで「あの人は『あっち』の人だからね」といったような差別的なニュアンスの発言をしてしまうことになる。
僕は昔、実際にそういった発言を複数の人から聞いたことがある。言っている当人達は変な人でもなんでもなく、いたって普通の、立派に仕事をする人達だった。

また、タレントなどがちょっとした不祥事を起こしたき、マスコミやインターネットなどで異常に追及され、叩かれることがある。こういった風潮は、差別そのものではないかと思う。世間が、いじめる対象、差別する対象を求めているようにも感じる。

ただ、差別問題の根が深いのは、差別される側がそれを「商売」として、金もうけをしたりするところだ。野中さんは、そういったことをつぶさなければ差別はなくらないと考えており、不当な利権をなくすことに注力した。

差別問題に取り組む政治家は旧社会党系に多いが、そのなかで野中さんは、あえて当時の政権与党で保守の自民党にいたというのは面白い。
「与党=体制=差別を作る側」というように色分けされてみられがちだが、本当は「体制」「反体制」というように、はっきりと色分けできるものではないということだ。

ちなみに、現在の僕自身の政治的なスタンスを言っておくと、特に支持政党などはない。別に、どこだっていいと思っている。ただ、ある一つの思想や考え方に凝り固まってるようなものは好きではない。

人間、自分とは何かが違う者に対して違和感をもつのは当然だが、それを許容するような、多様性を尊重する精神は失いたくないと思う。

今回の乱読で得たこと

無意識の差別が一番怖い

<今回の本>
辛淑玉、野中広務・著『差別と日本人』(角川oneテーマ)

2010年2月25日