最近、「お天気キャスターには"屋上派"と"地下室派"がいる」ということを、ブログや新聞へ投稿した。これはお天気キャスターの草分けである倉嶋厚さんにうかがった話である。"屋上派"は、活動的に外へ出て実際の微妙な空もようを見たりして、天気を予報する。一方"地下室派"は、屋内にこもって、気象データとにらめっこしながら予報をする。お天気キャスターはたいてい、この2種類に分けられるのではないか、という話だ。
この分類でいけば、僕は自分を"地下室派"だと思う。「なんとなく」の微妙な空模様よりも、定量的にわかる数値データをもとにするやりかたの方が、性にあっているようだ。
ただ、活動的な印象がある"屋上派"のほうが、周囲の受けはいい。だから、僕はつとめて"屋上派"としてふるまっているところもある。
さて、今回ご紹介する『エビデンス主義』の「エビデンス」というのは、主に医療関係で使われることばで、「根拠」という意味である。近年、エビデンスベースドメディスン(EBM、根拠に基づく医療)というものが注目されている。ようするに、「そのやりかたで治った人がどれだけいるか」という科学的根拠があってはじめて、きちんとした医療といえるとい考え方だ。
『エビデンス主義』を書いた和田さんによれば、日本では、医療にかぎらず政策などでも、異なるデータ(エビデンス)が実際にあるのに、雰囲気だけで決めてしまうことがよくあるそうだ。
先ほどの"屋上派"と"地下室派"でいえば、データを重視する"地下室派"が、エビデンス主義に相当するだろうか。
もし僕が患者なら、明るい"屋上派"の医者よりも、暗くてもいいから"地下室派"の医者に手術してもらいたい。だが、世の中一般では、人あたりのいい"屋上派"の医者がよいとされるのではないか。
僕からすれば、人柄はどうでもいい。いちばんだいじなのは、「その手術で治る」という根拠があるかどうかだと思うのだが。
そういった風潮に対して危機感をもっている和田さんは、雰囲気や机上の理屈よりも、統計データなどのエビデンスにもとづいておこなうべきだ、ということを主張している。
そういえば、数年前、テレビの天気予報で、放送事故ともいえない程度の小さな事件があった。あるお天気キャスターが、「海の事故による死亡者は○人しかいませんでした」と言ってしまったのだ。
おそらく多くの視聴者が「『○人しか』なんて言いかたはないだろう」と思ったに違いない。あたりまえだ。テレビで情報を伝える人間として、使ってはいけない表現だろう。当然、訂正と謝罪があった。
しかし、「冷夏には海の事故が少ない」という事実を、きちんとデータを示して伝えようとした、その姿勢は評価したいと思う。そのお天気キャスターは、ある意味、エビデンス主義を実践したとも言えるかもしれない。
えてして、マスメディアはそれとは真逆の方向に走りがちだ。虚偽報道や印象操作の問題が、しばしば起こる。
今回はもう一冊紹介しよう。『メディア・バイアス』という本には、その最近の例がずらりと挙げられている。「○○を食べれば、簡単にダイエットができる」「■■なものは、体にとてもよい」「●●という添加物は危ない」などなど......。そして、それらがいかにあいまいな根拠で、扇動的に報道され、人々が踊らされてきたのかが、よくわかる。
みんな、より楽で、面白くて、おいしい情報をほしがっている。その情報が事実かどうかは、だれも気にしない。そして、なにかの拍子にウソだとばれたら、よってたかって叩きまくる。だれも責任をとらない。
バッシング報道で、コメンテーターが難しい顔で何かコメントしたりする。そのコメントはおしなべて感情的で、中身も根拠も何もない。みな、その事件を、ドラマティックなエンターテインメントとして楽しんでいるようにしか見えない。
「事実」とは、そんなにドラマティックなものではない。一見「つまらない」ものなんだと思う。確かに、「画期的な新発見」や「意外な新事実」は、わくわくするし、刺激的だ。そのままそれを受け入れてしまいたくなる気持ちもよくわかる。そっちのほうが楽しいのだから。
だが、それでは、ひたすら情報に翻弄(ほんろう)されつづけるだけではないのか。
それはそれで楽しいのかもしれないが、僕は、ちょっと違うと感じる。
僕は、一度立ち止まって、客観的に、定量的に、検証してみる心がまえを常に持っていたい。そこは、テレビやラジオで情報をあつかう仕事をする身として、譲れないところである。
今回の乱読から得たことなど
やっぱり僕は"地下室派"だということを再認識した
<今回の本>
和田秀樹・著『エビデンス主義―統計数値から常識のウソを見抜く』(角川SSC新書)
松永和紀・著『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』(光文社新書)