1冊め 政治がダメな理由が書いてある『学問のすすめ』

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「現代人の読書離れが進んでいる」などとよく言われる。

いつの時代も、本を読む人間はなんであれ読むし、読まない人間はどんなに面白くためになる本が出ても読まないのだと思う。そしていつも読まない側が多数派だ。

この『学問のすすめ』の冒頭には、「学問をして物事を知っていれば豊かになり、しなければ貧しくなる」というふうに書いてある。勉強するのに一番いい方法は、昔も今も活字を読むこと。だから『学問のすすめ』は「読書のすすめ」でもある。

『学問のすすめ』は、江戸時代が終わったばかりのころに書かれた。少し前まで皆ちょんまげを結っていた時代だ。そんな時代に福沢諭吉は「忠臣蔵は間違いだ」「赤穂浪士は乱暴者だ」と言ってのける。ほとんどの人間が「赤穂浪士の仇討ちは素晴らしい」と喝采をおくっていたはずなのに。考えてみれば現代でも、日本人に忠臣蔵のドラマを見せて「赤穂浪士の側が間違っている」と言える人が何人いるだろうか。つくづく、明治のインテリはすごいと思う。

福沢は「愚かな政府は愚かな民がつくる」と言った。いわゆる民主主義の思想である。

民主主義とはなんだろう。

僕は、「多数派になるために仲間を獲得する競争」だと思う。たとえば僕が病気になって、その治療を100人で民主主義的に決めることになったとする。会議では99人が「おまじないをすれば治る」と言い、1人が「いや、これは手術すれば治る」と言う。多数決で決めるのなら「じゃあ手術なんかしないでおまじないをしよう」ということになる。

僕からすればたまったものではない。しかし、民主主義には正しいほうが多数派になる、という前提がある。だから僕を治すには、この1人が99人に対して「こちらのほうが正しい」と説得工作をかけて切り崩し、多数派というポジションを獲得してから手術をしなければならない。結果的に負けて、手術せずに僕が死んでしまったとしてもしかたがない。ただし、負けた側の主張は一つの考え方として残っていく。

多数の民衆が赤穂浪士を賞賛するなら、その国は仇討ちという名目の殺人が許される国になってしまう。みな政治が悪いのは政治家のせいだと言うが、その政治家を選ぶのも民衆。
学ばない人間に、優れた政治家を選べるとは思わない。だから僕たちは政治家を批判する前に、自分たちで学ばなければいけないのだ。

先日テレビを見ていて、こんな話があった。
恐竜は隕石の落下が原因とみられる寒冷化の影響で絶滅したのだが、その中で唯一生き残った恐竜がいた。その恐竜とは羽毛を持つ恐竜、すなわち鳥である。

これは僕が勝手に言っていることだが、鳥というのは生物の中でももっとも優れた生物ではないかと思う。ダチョウはものすごい速さで走るし、ペンギンはものすごい勢いで泳ぐ。そして多くの鳥は、他のほとんどの生物ができない「飛行」ということができる。つまり夏のオリンピックの「走る」「泳ぐ」「飛ぶ(跳ぶ)」、全部の種目でトップクラスの実力を持っているのだ。

鳥がそれらの能力をなぜ伸ばしたのかというと、生存競争のためだ。ダーウィンの「変化するものだけが生き残る」という有名な言葉のとおり、何かの能力を進化させて、生き残ってきた。

人類はどうだろう。人類が他の動物と比べて優れているのは、考えるまでもなく脳だ。脳を大きくすること、つまり学ぶことによって生き残ってきた。それが生存競争に勝つためにもっとも重要なことだった。だから人間は本能的に、学ぶことを「面白い」と思うようにできているのだ。

「活字離れが進んでいる」とか、「本が売れない」などと聞くと、僕などは「こんなに面白いのに、なぜ本を買わないのだろうか」と心底ふしぎに思うものだ。

今回の乱読から得たことなど

100年以上前から世の中は変わっていないことがわかった。
今後は忠臣蔵をひねくれた目で見てしまうことだろう。

<今回の本> 福沢諭吉・著/齋藤孝・訳『学問のすすめ 現代語訳』(ちくま新書)

2009年8月28日