僕は少年のころ、プロの将棋指しになるというひそかな夢をもっていた。
父親やまわりの大人に教えられて、ものごころつくころから将棋ができた僕は、小学生ながらもそれなりに強く、大人たちにも勝てるくらいの実力があった。「正光君は近所でいちばん強い」などとおだてあげられて、得意になっていた。
中学に上がってのちは将棋をあまり指さなくなり、その将来の夢も変わったが、あいかわらず自分は将棋が強いと、特に根拠もなく思っていた。
その鼻をへし折られたのは、30年ほど前、気象協会に入って間もなくのことである。
気象協会には、夜勤の仕事があった。当番のときは協会に泊まりこみで仕事をするのだが、ずっと仕事をしているわけではなく、空きの時間がある。
その時間は、持ち寄ったもので夜食を作ってみなで食べたり、トランプをしたりと、わりと自由だった。ある日の空き時間に、上司に「将棋を指さないか」と誘われ、勝負することになった。
勝てる自信はあった。だがその上司は、きちんと将棋の勉強もしていなかった僕などよりも圧倒的に強かった。何度やっても、コテンパンにされてしまう。ショックだった。
悔しかった僕は、猛勉強を始めた。将棋の本や雑誌を買いあさり、道場にも通った。勉強するうち、だんだんと上司にも太刀打ちできるようになっていく。そしてアマチュア二段になるまでウデを上げたころには、もはや敵ではなくなった。
「これから、今まで負け続けた借りを返せる」といきまいたが、もはや、上司から将棋に誘われることはなかった。
そして現在も、将棋が好きだということは変わらず、将棋の本をよく読んだり、いろいろな棋士の方々とも交流を持ったりしている。
さて、僕が将棋に夢中になっていたころ、将棋界で一大旋風を巻き起こしていたのが、小池重明(こいけじゅうめい)である。
それまで、雑誌などのメディアに出てくる将棋はすべてプロ対プロで、アマチュア棋士が出る幕などなかった。プロは絶対にハンデなしでアマチュアとは指さない。プロとアマチュアの間には、越えられない壁が厳然として存在する。そういうことになっていたのだ。
そんな世界に突如あらわれた小池重明というアマチュアの男が、なみいるプロ棋士を次々と倒していく。
われわれ将棋ファンは熱狂した。プロより強いアマチュアがいるのだ。
当然、彼をプロにしようという動きがおこってきた。だが、彼は結局プロにはなれなかった。
なぜか。彼は現金を賭けて行う「賭け将棋」で生計を立てる「真剣師」だったのだ。おまけに素行が悪い。詐欺まがいの事件を起こしたり、酔って暴れて警察に連行されたりするのもよくある話だった。それらの事実が判明してプロ入りの話は消え、それ以降は、小池重明の名は将棋雑誌からこつぜんと消えてしまった。
挫折した小池に手をさしのべたのが、大の将棋好きとしても知られる作家の団鬼六(だんおにろく)さんだ。才能にほれ込み、彼の活動を支援していた。そしてその生涯をつづったのが『真剣師 小池重明』である。
この本に書かれている小池重明の生活は、ひどいものだ。
四六時中飲んだくれる。ほうぼうに借金をし、金を得れば夜遊びとギャンブルにつぎごむ。あげくのはてには他人の女房を連れて逃げる。本当にはた迷惑なやつだ。友達になんか絶対なりたくない。
だが、その破天荒な生き方には強烈に惹かれるものがある。むちゃくちゃな人間ほど、面白いのだ。僕自身も「見てる分には面白いけど付き合うのはたいへんだ」などと言われたことがあるが、小池重明はけたが違う。
団鬼六さんをだまして旅行へ連れ出し、酒を飲ませ、寝ている団さんを勝手に金の保証人として他の真剣師と賭け将棋をしたこともあった。団さんが朝起きると、「これはあなたの取り分です」といって大金を渡されて驚いたという。団さんは、自分が財布のかわりにされていることを知らないのだから、わざわざ分け前を渡さなくても大丈夫だと思うのだが、そういうところが、小池重明なのだ。
破天荒ななかに見せる、妙な義理堅さ、無邪気さ。
将棋の強さもあるが、団鬼六さんはその人柄に惹かれたのにちがいない。
小池重明のような無頼(ぶらい)な生き方は、いまの社会ではできないだろう。
罪を犯したり、他人に迷惑をかけたりするのがよくないのは当たり前だ。だが社会の規範や空気からはみ出したものをすぐに切り捨て、落ちぶれたものを「自己責任」としてかえりみない、そんな傾向に僕は一抹(いちまつ)の寂しさを覚える。
もう少し寛容になってもいいじゃないか。
どんな人間も、悪い面だけがあるわけではない。善か悪か、1か0かの二進法で表せるものではないと思う。少しくらい迷惑でも、「しょうがないなぁ」などと言いながら手をさしのべる。そういう余裕と人情がある社会のほうが、よほど健全で、面白いではないか。
今回の乱読から得たことなど
無頼な生き方が許されない世の中なんて、つまらない
<今回の本> 団鬼六・著『真剣師 小池重明』(イースト・プレス)